近藤哲生氏、問題のなるべく近くに行って解決したほうが良いと語る

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  • 2016年3月23日

    2016年2月9日、第9回UNU CAFÉ「近藤哲生氏と語らう」が国連大学本部で開催されました。近藤氏は、国連開発計画(UNDP)チャド事務所長として、国連平和維持ミッションの撤退後の治安維持を指揮してきました。2014年よりUNDP駐日代表事務所駐日代表を務めています。

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    Photo: Saori Tanaka/UNU-IAS

     

    国づくりを応援する

    UNDP(国連開発計画、United Nations Development Programme)は、開発途上国の国づくりを支援する国連機関です。国連(United Nations)そのものは、第二次世界大戦の戦勝国が戦後の集団安全保障体系を作るため、1945年に設立されましたが、「United Nations」を日本語で「連合国」ではなく、「国際連合」と訳し、1956年に戦勝国にとって敵国であった日本が加盟したことで、安全保障以外のために協力するという流れが出てきました。そうしたなかで、アフリカで独立した国で新しくリーダーになった人々が中心となって1960年の国連総会に集まり、各国の代表者との話し合いを進めるなかで、国づくりを支援する国連機関として誕生したのがUNDPです。近藤氏はこうした歴史的背景を振り返り、日本が一貫してUNDPのトップドナー国の一つであったことから、「UNの役割が文字通り国際連合になっていき、日本は開発と人道の分野で大きな役割を果たしているのではないか」と述べました。

    UNDPが過去15年間に行ってきた主要な仕事のひとつに、2000年に決まったミレニアム開発目標(MDGs)への取り組みがあります。このなかでも近藤氏は、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康の改善、HIVなどの蔓延防止といった保健のテーマについて、2016年5月に開催されるG7伊勢志摩サミット議長国である日本が、「新しい持続可能な開発目標(SDGs)のなかでどう取扱うかが非常に注目されている」と指摘しました。

     

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    2015年9月に採択された「持続可能な開発目標」

     

    チャドでの挑戦

    サハラ以南の地域では、特に妊産婦の保健に関して、過去15年間の目標達成度が低い状況です。2010年にそうした地域の一つであるチャドに赴任した近藤氏は、(1)自分の任務は何か、(2)その任務を遂行するための課題は何か、(3)課題を克服するためのプランは何か、(4)そこで生じるリスクは何か、(5)結果をどう評価するか、といった一連の流れを考え、計画を立てます。チャドの妊産婦死亡率は10万人中600人。日本の10万人中5人という数字と比べれば高いことがわかります。女性の教育と人権保障の重要性を訴える近藤氏の取り組みが実を結び、2015年には、チャドに早期婚を禁止する法律が制定されました。

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    (近藤哲生氏の当日のスライドより)

     

    チャドとスーダンとの和平が成立し、武装集団の武装が解除された際には、DDR(Disarmament, Demobilization, Reintegration)という武装解除・動員解除・社会復帰の取り組みを通して、兵士達に仕事を与える任務が生じます。近藤氏は、チャド赴任直後にPKO部隊の代表に呼ばれて激励されたことに触れ、3年半にわたる任務がスタートした頃を振り返りました。

    この他にも、スーダン国境近くにある難民の自立支援を行うプロジェクトにあたった近藤氏は、「人間の安全保障」という考え方を世に広めたUNDPの「人間開発報告書」を紹介しながら、一人当たりの所得や平均寿命、修学年数などの指標項目から見るとチャドは厳しい状況ながらも「世の中は少しずつ変わっていくかもしれない、やればできるのかもしれないとチャドに住んでいる人たちに思って頂くのが私の任務だった」と説明しました。

     

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    (近藤哲生氏の当日のスライドより)

     

    問題のなるべく近くに行って解決したい

    進行役のUNU-IAS所長の竹本和彦から、外務省から国連組織であるUNDPに飛び込んだときの決断のポイントを尋ねられると、近藤氏は「もう少し良く考えればよかったかもしれない」と会場の笑いを誘いながら、外務省時代に安全保障理事会に関する責務に携わった際に、アフガニスタンから上がってくる死亡者数のレポートを見て、「本当にその人達が心配なら、この人たちの現場にいかなければならないという気持ちが自分自身の中にわいてきたことが大きなきっかけになった」と語りました。

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    アメリカとアフガニスタンの戦争が始まり、外務省からの出向職員として現場に行く機会を得た近藤氏は、安全保障理事会での決議で見たレポートに書いてあることが実際に起きていることを目の当たりにします。そこで懸命に生きる女性や子ども達の側に立つのか、ドナー国とニューヨークの国連本部の立場に立つのかを考えた結果、「自分のプリンシプルとして問題のなるべく近くに行って問題を解決したほうが良い」と決意を固め、外務省を退職してUNDPで働くことを選びました。

    さらに、会場から普遍的な理想の追求と利潤追求の両立の難しさについて尋ねられると、MDGsからSDGsになって、すべての人が誰も取り残されない世の中にするために根本的な発想の転換が必要になったとして、「企業が商売をして儲けて得た利益をどうやって使うのか、世の中の格差をもっと減らすことを考えながら仕事をする人が増えれば、大きな変化が生じてくるはずだ」として、「自分から始まる発想の転換」の重要性を強調しました。

    最後に、これまでの経験で印象に残っていることは何かとの質問に、近藤氏は東ティモールで2006年に独立後の揺り戻しの危機があったときのことを振り返りました。市民15万人が難民キャンプに戻ってしまった地域の復興を巡り、社会問題担当大臣らと復興計画を立て、その実行に当たりました。その結果、 10ヶ月の間で保健や衛生の問題で一人の死者を出すことなくその地域の復興を成し遂げることができました。現地での任務を終えて大臣のもとに挨拶に訪れると、「哲生、お前がいなかったら状況はもっとひどかったと思う」と大臣は近藤氏の手を強く握りました。このときが「この仕事をやってきてよかったと思った」瞬間だったと近藤氏は語りました。

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    その後も国際機関で従事することを目指したこれからの選択について、近藤氏のアドバイスを求める参加者の長い列が続きました。

     

    近藤哲生氏のキャリアパス

    東京都立大学(現首都大学東京)を卒業
    米国ジョーンズ国際大学で開発修士号を取得
    1981年外務省に入省する
    2001年にUNDP 本部に出向する
    2005年に外務省を退職し、UNDP バンコク地域本部スマトラ沖津波被害復興支援上級顧問、国連東ティモール派遣団人道支援調整官を経て、2007 年にUNDP コソボ事務所副代表、2010 年UNDP チャド事務所長に就任
    2014年1月より国連開発計画(UNDP)駐日代表事務所駐日代表を務める